氷上の軌跡 -#29 柴田響-

チームブログをご覧の皆様こんにちは。
氷上の軌跡5番手を務めさせていただく、#29 柴田響です。


先日のインカレでは沢山の応援ありがとうございました。ライブ配信の閲覧や応援メッセージ、差し入れなど、様々な形で私たちを支えてくださったおかげで、インカレの重圧にも立ち向かうことができました。
結果で恩返しすることはできませんでしたが、インカレ以前から考えると、別のチームになったような仕上がりをお見せできたのではないかと思います。
チームが不調な時でも私たちを信じてくださり、本当にありがとうございました。


12月27日をもって引退し、2週間ほどが経ちました。年末年始は地元でゆっくり過ごし、ホッケーがひと段落したことを感じますが、どこか再び3月から新しいシーズンが始まるような気がしてしまいます。今は本当に引退したのかなとぼんやりしていますが、これから行う退寮の準備や卒業旅行などの日々を通して、徐々に実感していくものなのかなと思います。


さて、今回は氷上の軌跡という名の付いたブログですので、私のアイスホッケー人生を辿っていきたいと思います。私の生き様そのものともいえるホッケー人生ですので、長くまとまりのないブログになってしまうかもしれませんが、出来るだけ分かりやすく書きます。
まとまりのあるように…でも詳細に書きたい…そんな気持ちを喧嘩させながら、締め切り前日の深夜に焦って書いているいつもの私です。最後まで読んでいただけると嬉しいです!

ではホッケー人生録スタート。

きっかけは父が元アイスホッケー選手だったことです。
6つ上の姉と4つ上の兄もホッケーをやっていたので、生まれる前からホッケーをやる運命だったのだと思います。3歳の頃から始めたこともあり、保育園の頃は嬉しかったことも悔しかったことも覚えていません。恐らく操り人形のように、言われるがままにスケートをしていたのだと思います。


小学生になると、クラブチームの一員として試合に出られるようになりました。点を決めた時の喜び、そして大会参加の際のお泊まりの楽しさを知り、ホッケーへの関心が高まっていきました。
また、父が所属する社会人チームの試合を観にいくようになったのもこの頃からだったと思います。パックを自在に操る身近なヒーローに夢中になりました。
こうして1日の中で、アイスホッケーのことを考える時間が増えていくのでした。もちろん、ニンテンドーDSの次にという意味ですが。

中学3年生になる時に、私のホッケー人生最大の転機が訪れました。北海道へのホッケー留学です。親元を離れての移住だったので、両親にとっては本当に難しい決断だったと思います。手元を離れる不安も、他人に預ける不安も大きかったと思います。それでも私の夢のためだからと私を信じて送り出してくれました。お別れの時の、母のいつも以上に寂しそうな顔と、普段は感情を表に出さない父の涙声は、北海道で目一杯頑張ると決意を固めるのに十分でした。
いざチームに合流してみると、スピード、スキル、パワー、どれを取っても今まで自分がやってきたホッケーとは段違いで、本気でエイリア学園かと思いました。本場のホッケーを実際に経験したことで、自分は井の中の蛙だったことを知ったし、ホッケーは底が見えないほど奥が深いスポーツだと感じました。
最初は試合で活躍することはもってのほか、みんなの当たり前が当たり前にできなかったし、イメージの共有もできませんでした。でも確実にレベルアップしている感触が嬉しく、難しいことに挑戦することの楽しさを学びました。地元のローカル大会で活躍するのが精一杯だった私が、1年後に全国優勝の一助になれるとは当時思いもよらず、間違いなくこれまでのホッケー人生で最も成長できた1年間でした。


高校は、インターハイ初優勝を成し遂げたいという思いで清水高校を選びました。
前例のないことをするのは難しいことだけど、だからこそ価値があると思い、中学時代の仲間とともに入学しました。結果的に優勝はできませんでしたが、目標のために主体的に取り組み仲間たちと思い悩んだ日々が、私を成長させてくれました。


そんな経緯もあり、強い気持ちを持って憧れの中央大学に入学しました。
入学直後は知り合いもいなく不安がいっぱいでしたが、当時の部屋の先輩である鶴さん(2020年度卒)、かずまさん(2021年度卒)、ろいさん(笑) (現横浜グリッツ#16)に気にかけていただいたおかげで慣れることができました。Wそうしさん(凶悪)からも守ってくださり、この恩は忘れません。笑
1年目は3月に集合してすぐの陸トレで怪我をしてしまい、1シーズンホッケーができないもどかしいシーズンでした。

2年目は、復帰できた年なので純粋にホッケーを目一杯楽しんだ年でした。怪我前までに培ったスピードや間合いの感覚は忘れ、うまくいかなかったけど、ただただアイスホッケーができる喜びを噛み締めました。

1.2年目はやりたいのにできない、モヤがかかったような年でしたが、先輩方や同期の気遣いに救われました。リンクサイドで見ていることしかできない私に声をかけてくれて輪に入れてくれたり、「お前ならできるよ」と親身にアドバイスをくれたりと、自分もそんな人になりたいと思ったし、中央というチームが好きになりました。本当にありがとうございました。

3年目は自分の弱さを実感した年でした。2年目で自分のプレーを取り戻し、怪我の影響はないはずなのに、通用しないという現実を突きつけられました。そして、人と比べたり、何かのせいにしたり、やらない理由を探したり…自分から目を背けることが多かった、不甲斐ない年でした。

そして4年目は、学生ホッケー最後の年にして、原点に返った年でした。
ホッケーを楽しむ。泥臭くやる。チームのためにプレーする。あとたった1年で最大のパフォーマンスを発揮するには、1度こだわりやプライドを忘れた、このマインドだと思ったのです。
結果的に4年間で最もコンディションが良かった年になりました。
チームとしては思い描いた結果が出ず、悩んだ年でした。しかし#27尚輝やスタッフの皆さんを中心に、決して諦めることなく練習や陸トレに粘り強く取り組んだ、誇りに思える年だったと、個人的には思っています。インカレ期間のみんなの魂のこもったプレーは目に焼き付いて離れない瞬間ばかりでした。


こうして振り返ると、沢山の学びや喜び、葛藤があり、そしてあげたらキリがないほど多くの人に支えられていたことを実感します。


同期のみんな
同期のみんなとは本当に多くの時間を過ごしました。普段から一緒にいすぎて、4年目にはあまり同期会を開かなくなってしまったね笑
ストイックな姿勢で刺激をくれたり、息ができなくなるくらい笑わせてくれたり、中学時代の武勇伝を永遠に聞かせてくれたり(?)…
4年間を通して、虹色の感情を味わわせてもらいました。
春からは離れ離れになってしまうと思うけど、たまに大学時代の話をして笑えたら嬉しいです。


#14 タネ、#33 はると、ファイヤースティック(別名:#2 金子あさひ)
最後の年、同じ部屋で仲良くしてくれてありがとう。落ち込んでいる時や疲れている時でも、みんなとああだこうだ言いながらネトフリを観ている時だけは忘れられました。みんなと過ごす空間が、いつの間にかおれの拠り所になっていたんですね。おれは卒業してしまうし、来年の部屋メンバーは同じか分からないけど、またこのメンバーで集まって金子いじりしましょう。
バチェラーに出ることになったら1番に連絡するので応援してください。


家族へ
これまでおれのために我慢したり、悩んだりすることが多かったと思うし、扱いにくい末っ子だったよね。
インカレの関大戦、最後の1分で八戸監督から名前を呼ばれた時、ふと家族のみんなの顔が思い浮かびました。負けは決まっていたし、体は冷え切っていたけど、家族に良い姿を見せたいという思いで走りました。これまでのホッケー人生を通して、おれのことを信じてくれるみんなの存在が1番の原動力になっていました。
本当に周りの人に恵まれた私の人生ですが、1番の奇跡はみんなと家族であることだと思っています。今まで本当にありがとう。



これまでのホッケー人生を感謝の気持ちとともに回顧しているうちに、恩返しをしたいという気持ちが固まっていきました。ホッケー選手としても、1人の人間としても、ほんのちっぽけな私ですが、ちっぽけなりに恩返ししていけるよう、がむしゃらになりたいと思います。

以上で私の氷上の軌跡は終わりです。
これまでのホッケー人生で沢山の人に与えてもらった、ありとあらゆる思い出を抱き締めて、社会に出ようと思います。


長々としたブログでしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
そして今後とも、中央大学スケート部の応援よろしくお願いします。
#29 柴田 響

中央大学スケート部アイスホッケー部門

中央大学スケート部 アイスホッケー部門